例題17
会社整理ルポ
さてさて、会社の整理を目のあたりにしました。
皆さんよく知っているSFCG(旧商工ファンド)です。そう上場していた金融業者です。
ここでは、金融会社の行く末をレポートします。
SFCG
1978年 株式会社商工ファンドとして、事業者向け貸金業者として生まれたこの会社は、今までの貸金業者とはまったく違う道を歩みました。
設立当時こそ、その他の金融業者と変わらない金利設定ではあったものの、他の事業者金融業者が旧態依然とした小規模経営だったのに対し、
積極的な拡大路線を目指し、身内的な経営を、組織的な経営に変革していったのです。
もちろん、他の事業者金融業者が組織拡大を望まなかったわけではないのですが、事業者金融という特殊な世界は、近代的な組織になじまな
かったといえるでしょう。
(今もそうですが、アンダーグラウンドの匂いのするこの業界は、元々、表に出ることなく水面下で生息し、利用者も公になることを
嫌っていたのです)
商工ファンドのとった行動は、単純で、従業員を増やす努力をした。・・・これに尽きます。
従業員が増えれば、(例えば、100人を超えれば)、それを維持することは、自然と組織的になるということです。
それまでの事業者金融業者はなぜかそれをしませんでした。又、できなかった。
何故なら、この業界に入る人間の質が極めて限定的だったからです。
そして、それは経営者側にもいえました。きわめて限定的な質の経営者達だったのです。
大島社長の実家、及びその関係からの資金調達は、当時としては潤沢で、この拡大路線に弾みをつけました。当初、他の金融業者と
変わらなかった金利も徐々に下げていき、特に商業手形割引に関しては、業界で、価格破壊とまで言われました。
(今となっては、決して安くないのですが)
商工ローンという商品を携えて(商工ローンという名づけは何処から発生したか不明ですが、有名にしたのは間違いなく商工ファンドでした)
大島氏の躍進は続きました。
「過酷な勧誘活動」と「積極的な勧誘活動」は、一枚の薄い紙の裏表です。
金利とマンパワーで、他の事業者金融業者を席巻していた商工ファンドは、1989年店頭公開、1997年東証2部、1999年東証1部へと
上り詰めていきました。
ロプロ(旧日榮)との師弟関係はよく言われますが、大島氏が事業者金融を目指した当時、日榮以外の事業者金融へも教えを請いに
出入りしていました。
日榮を立てたのは、大島氏の戦略だった気がします。何故ならその当時の事業者金融、特に手形割引の世界では日榮は力がある(資金力のこと)
とされていましたし、上昇志向での、話が合ったのかもしれません。
その後の、商工ファンドの行動は、革新的でとても日榮の教えを請うていたとは思えません。
(強烈な勧誘活動を営業の指針にしたという面では似ているようにも見えますが、これは互いに、上場によって潤沢な資金が入ってからの
ようです。)
上場したことにより、資金力のついた大島氏は徐々に金融の怖さにさらされていくことになります。
つまり、資金余りで貸さなければならない状況に追い込まれていくのです。
自身の、身の丈にあった資金で動かしている間は、きちんと審査された貸付ができても、人の多さと、金の多さによって、表面的な数字でしか
管理ができない状態になっていきます。
実質の不良債権の多さは、ものすごいものだと思います。(破産によって、いずれその一端はわかるはずですが)
又、大島氏自身の資質なのか、集まってきた人間たちの資質なのか、国会の証人喚問まで引き起こした、取立てに対する非難は金融業界を
揺るがし、やがて、出資法で認められていた金利の否認や、貸付金額に関する制限などにつながっていきます。
いわゆるグレーゾーンの否認と過払金の請求は、大手金融業者を直撃しました。
今までの値段(29.20%)を、半分で売りなさい(15.00%)
なおかつ、今まで払ったものは、その半分を返しなさい。
とても、法治国家とは思えない(議員立法で認められていたはずの法律が否認され)この判決により、商工ファンドの迷走は始まります。
かつて、国会証人で「金利は市場が決める」と言っていた大島氏も、自身の信念を主張する時間はなく、会社存亡の危機に立たされたのでした。
(大島氏にはこの一連の法律に関する是非を、国を相手に戦ってもらいたいのですが、無理でしょうか?)
単純に売上利益の中で会社を存続させれば、個人でも法人でも生活は成り立ちます。
そこに、急な出費が出現しました。(過払い金の請求)
そして収入は半分に減りました。(上限金利の引き下げ)
ちなみに、2007年7月期の(株)SFCG(2002年に商工ファンドから商号変更)は、709億1000万の収入に関して146億700万の黒字。
ということは、必要経費は563億300万(単純計算ですが)
709億1000万の収入が単純に半分に減ったとすると、354億5500万。
必要経費に208億4800万足りません。
パーセンテージで計算すると、709億1000万の収入に対する黒字146億700万の利益率は20.56パーセント。
709億1000万の収入が半分に減った354億5500万に対する20.56パーセントは72億8954万。
急な出費(過払い金の請求)を長期に補填してもらい、事業縮小し、売れる資産を売却すれば、何とかなるかも知れない。
リーマンブラザーズの破綻により、新しい資金の導入が難しくなりました。
数字だけで管理していた、貸付金は多額の貸し倒れが予想されました。
金余りのために買い込んだ、あるいは作った会社の数々は、内容の薄いあるいは必要の無いものはが大半でした。
もともと利益で組織運営できる状況ではなかったのです。誰よりもそれがわかっていたのは大島氏ではないでしょうか。
大島氏の拡大戦略は、内容を整えていくことよりは、拡大することで存在価値を形成しようとするもであったように見えます。
内容を整えていくには、時間がかかり過ぎると考えたのかもしれません。
あるいは、銀行以外の事業者金融業者が、国の保護なしでやっていくのは、日本では無理と感じたのでしょうか。
(ある面当たっているかもしれません)
もうひとつは、事業者金融のアンダーグラウンドな部分が拡大を阻んだ部分もあるかもしれません(人の質の問題)
お金儲けだけでやるには、単に騙し合いになってしまう業界ということでしょうか。
大島氏が、危機に直面したとき取った方法は、資金の導入と資産の切り売りでした。
・ ・・・・・・まあ、考えたとおりでしたね。
リーマンショックと金融業界への逆風の中、資金導入はなりませんでした。
(在日人脈を頼った韓国関連や、その他アジアからの資金導入がささやかれました。)
資産の切り売りは、本来貸付資産以外のものが対象にならなければ、資金が導入されたところで、売上が作れません。
ところが、大島氏はこの貸付金に手をつけました。
オリックスや、振興銀行への貸付債権の譲渡です。
これに関しては、理由が不明です。
- 1.将来的に自身の受け皿を確保したかったのか
- 2.貸金業自体をあきらめたのか
- 3.そもそも、会社自体が売れなかったのか、あるいは、値段が合わなかったのか
たぶん全部が複合的に絡んだのではないでしょうか。
この時期のSFCGは、債務者への返済の督促が、理由の無いものだったり、既に係争中のものだったりと、混迷を極めました。
国会の証人喚問前後から続いている、全国被害者の会の弁護団による糾弾も激しさを増していきました。
ちなみに、金融業者に対する裁判は、利用者(あえて被害者といいませんが)とその弁護団の、圧勝、完勝、大勝利です。その一方的な
勝利には恐怖さえ覚えます。
SFCGは自身の貸付債権を切り売りした時点で、再建の目はなかったといえるでしょう。
自身の尻尾を食う蛇みたいなものです。
そして2009年2月23日東京地裁へ民事再生法の適用を申請し、実質倒産しました。
この後の動きの中で注目したいのは大島氏の辞任と、譲渡した貸付債権の二重譲渡や、内容の齟齬問題です。
つまり、大島氏は逃げ、売られた債権は嘘っぱちだったという事実です。
・ ・・・まあ、買ったほうも買ったほうですが。・・・・・
同年3月24日再生手続きの廃止が決定され、
同年4月21日破産移行が決まりました。
ちなみに、負債3380億4000万、過払い金請求の潜在債務2100億と、リリースされました。